“先生”体験から考える

新聞そのものを「補完」する場

 1人当たり2、3分コメントすると、全員で30分程度はかかる。口の中はからからだ。全員の感想にコメントしようとしたことを後悔し始める。今更、後に引けない。途中でやめれば、コメントされなかった子供は悲しい思いをするだろう……。

 コメントしていくと、子供の顔が生き生きとしてくる。次は自分の番だ、どんなコメントをしてくれるのだろう、と瞳を輝かせて待っている。

 新聞教室の出来、不出来は、後で届く手紙や礼状で分かる。先の新聞教室では、かわいらしい鉛筆書きの手紙が届いた。「おかげで言葉にきょうみをもちました」「一人一人ちがうコメントをしてくれたのがすごいと思いました」「その日から、読まなかった新聞を読むようになりました」。何とか思いが届いたらしい。胸をなで下ろす。

 新聞教室は、一記者として積み重ねてきた経験と技術を提供する場でもある。インタビューのこつは? メモの仕方は? 書き出しの技術は? さらには記事の背景をやさしい言葉で説明し、新聞という素材の面白さ、活用の仕方を伝える。その意味で新聞教室は、新聞という媒体を補完するものと言えるのかもしれない。

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