“先生”体験から考える

柔らかな感受性に触れる ―教室も新聞人の大切な「現場」

ニュースはすばらしいテキスト

 だが、出前授業で我々が日常的に使っている言葉がすんなり通じない場合もあり、その時は新聞社内で「常識」として使っている表現でも見直さなくてはいけないと思う。「かみくだいて、平易な言葉を使う」というのは相手が大人でも実は難しい。ある短大で今春新設した毎日新聞との提携講座「日本文化と国際理解」で、記者を派遣するコーディネーターとしてベテラン編集委員に「和食」をテーマに講義を頼み、学生たちと一緒に聴講した。

 「ショクリョウジキュウリツが……」「シュンのものを大事に」「イチジュウサンサイとよく言いますが……」「料理の世界のジュウチンです」……。新聞記者ならば「食料自給率」「旬」「一汁三菜」「重鎮」とすんなり頭に入っていくが、学生たちの顔に「?」の表情が浮かんだ。若い世代の言語能力低下を反映するかのように、漢字にすぐ〝変換〟できない学生もいたようで、よりていねいに説明しなくてはいけないと感じた。

 たとえば、「食料自給率」ならこんな具合だろうか。「皆さんは、私たちが口にする食べ物がどこで作られたものなのか分かりますか? 日本国内で作られているものと、外国から輸入されたものがあります。食べ物全体のうち、どのくらい日本国内で作っているかを示す割合を食料自給率と言います。その食料自給率が……」

 そのような「わかりやすさ」を意識して、別の私立大で今年4月から7月まで、新聞記事の要約や少人数のグループディスカッションを行う講座(15回)を担当し、新聞社が教育にかかわることの可能性や希望を感じる瞬間があった。「憲法」や「イスラム国(IS)」「沖縄の基地問題」など、資料作りに苦労もあったが、ずばり「ニュースはすばらしいテキストになる」のだ。

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