“先生”体験から考える

変容する「新聞」のイメージ―記者派遣授業を通じて感じること

 「み、ってどんな字やったっけ」

 「はみ出たところを消しゴムで消してもいい?」

 こんなかわいい質問をおずおずと向けられることがある。小学校での「記者派遣授業」だ。たとえば「記事に見出しをつけてみよう」みたいな課題を出した後、作業に取り組む子どもたちを見回ると、恥ずかしそうにそんなことを聞いてくる子がいる。小4~5でも。

 そんな子どもたちに「最近、どんなニュースがあったかな」と聞くと、最初は「台風!」とか「野球の日本シリーズ」とか元気よく答えてくれるのだが、ふと一人が思い出したように「ずっと前の話でもいい?」と聞く。「いいよ。どんな話?」と促すと、小さな声で「いつか忘れたけど、小さい子が誘拐されはった」と言う。聞いていくと、それは数か月や数年前のニュースだったりする。それでも、「ああ、あのニュースね。こわかったね」と言うと、どの子も真顔でうなずくのだ。それがつい昨日起こった事件であるかのように。

 静かになった教室で、今度は「山に入った子が発見されはった」と誰かが思い出す。すると誰もが見るからにほっとした顔になり、雰囲気も明るくなる。

 こうした反応を見て感じるのは、少なくとも子どもたちにとって重大なニュースは「子どもに関係するニュース」で、それはたとえ数年前のものでも古びることはないということだ。子どもが危ない目に遭うとか、怖い思いをした場合、そのニュースは子どもたちに疑似体験のように深く刻まれるのかもしれない。親御さんから「あなたも気をつけるのよ」とことさらに言われたりもするだろう。その強い記憶が、時間がたってもいつまでも「ニュース」として口をついて出るのだ。子どもたちの小ささ、か弱さを感じる瞬間でもある。

学校が言う「新聞」とは

 ところで、学校側は「新聞を使った授業」に総じて熱心に見える。「新聞の作り方を教えてください」と頼まれることも多い。ただ、学校の言う「新聞」が通常の新聞とは微妙に違うことに関心を向ける必要があるかもしれない。

 小学校の先生が口にされる「新聞」とは、通常売られている日刊新聞ではなく、「体験学習などのまとめ」、いわゆる「手作りの壁新聞」を指すことが多い。学校側は、児童が行ったグループ研究、修学旅行の感想などを「新聞」にまとめて意見発表する「ポスターセッション」を重視していて、そのための「壁新聞作り」を教えてほしいと望んでいる。レイアウトの仕方、見出しの付け方など。

 それらは、通常の新聞作りと共通する部分も多い。こちらも「わかりやすく伝える」「強調したいポイントを決める」などの言い方で指導することはできる。子どもたちは喜んで作業するし、先生方は「今日の内容を秋の体験学習の新聞作りに生かします」などと言われる。めでたしめでたしなのだが、何か違和感が残る。これは何なのだろう。

 すでにある内容に合わせて作るのは新聞ではない、と思うからだろうか。新聞とはニュースを伝えるためのものであり、研究発表のツールではないと思うからか。だが、子どもたちにとって体験学習は大きなできごとだし、それを不特定多数の他者に伝えようとして作るのだから、それでいいではないかとも思う。そもそも新聞の発祥(瓦版など)を考えれば、子どもたちがやっていることはまさに原形に近いともいえる。

先生も知らない

 それでも、新聞社から学校に出向いて、この違和感を覚えたのは恐らく私だけではなかろうと思う。新聞への概念が教育現場では「通常の新聞」とは異なってきている気がするのだ。たとえば社会の教科書には「さまざまなメディア」としてテレビと新聞の比較などが載っている。しかし国語の教科書で「新聞にはリードと本文、見出しがあります」などを説明した単元に出てくる挿絵を見ると、描かれている「新聞」はむしろ行政などの広報紙に近い。すなわち、すべての記事が同一サイズで扱われ、見出しも写真も同じ大きさというスタイルだ。

 よく「クラスで『新聞をとっている人手を挙げて』と聞いたら半分以下だった」みたいな話を聞くが、この質問は子どもにではなく、先生方にすべきである。若い世代ではほとんどの先生がすでに新聞に触れていないとわかる。つまり、実際の新聞をあまり知らない先生が、新聞について教えることもあるわけで、その場合、子どもたちが「新聞といえば壁新聞のこと」みたいなイメージを持っても不思議はないと思うのだ。

 もちろん、自宅では購読していないが職場で読むという先生方は多いだろうし、「新聞社の作る新聞だけを(正しい)新聞として教えなくてはならないのか?」と問われれば、その答えは否であろう。そもそも新聞とは何かを考えれば、先に書いたように学校現場で作られる壁新聞も立派な新聞には違いない。

 ただし、こちらが新聞を売る側である以上、学校現場での「新聞」の認識の変容については知っておいたほうがいいかもしれない。最近では私は、先生方もすでに新聞を取っていないにもかかわらず、「新聞」という言葉が授業で生き残っていることにありがたささえ感じる。そして今後、「新聞イコール壁新聞」的な認識が学校現場で進むことは止められないだろうということも同時に感じるのだ。

筆者・プロフィール

林屋 祐子((はやしや・ゆうこ))
京都新聞社 メディア局読者交流センター長代理 

「新聞研究」2018年12月号掲載
※肩書は執筆当時